森のHARMONY

横浜から岩手県紫波の田舎に移住し紫波・盛岡の生活を中心にした話題を・・・森のharmony (田舎で種々雑多な混沌を楽しもう)

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陣ヶ岡 日月と皆既月食

今朝はこの冬一番の寒さ 昨日を更新、お袋が泊まりに来たので、昔訪れた 陣ヶ岡と五郎沼に出かけた、天気は良かったが 寒い事。

陣ヶ岡は蜂神社の横、近くに藤原泰衡の首洗い井戸がある
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藤原泰衡の首洗い井戸跡(看板)
文治5年9月4日源頼朝が28万4千騎の本陣として陣ヶ岡に宿営したとき河田次郎が主君泰衡の首を持参してこの井戸で洗いました。首実験のあと境内の木に八寸釘でさらし首になりましたが、これは源頼義・義家が同じ陣ヶ岡で安倍貞任のさらし首の先例にならったものです。同年9月10日平泉の心連大法師がこの首を懇願して中尊寺で供養し現在も保存されています。


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蜂神社の横には池の跡
月の輪形の由来(看板)
康平5年(1062年)源頼義、義家 父子は 厨川の安倍貞任攻略のため3万2千の軍勢を率い、この地に宿営した(前九年の役)このとき、戦勝祈願のため、大和の国より三日月堂蜂神社を歓請したが、 9月15日の月の夜に源氏の日月の旗が古堤に映り金色に輝いた これを見て全軍士気鼓舞し 頼義 「吉兆なり」と喜び この時戦勝の礼として日月像を奉造したとある。 その後、秀衡はこのいったいを豪華美景に飾り 高水t寺と結んで奥羽一万寺の修道浄化の場としたといわれている 以来幾多の変遷を経たが日月の像は未だ原形ををとどめ 全国に稀な貴重な史跡である。


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八門遁甲之兵法故趾由来(看板)
八門遁甲の兵法は 天武朝(672~687年)に伝来した六韜(りくとう)、三略(さんりゃく)(中国の兵書)にあり、別名長蛇の陣法とも言われる この兵法を大江匡房より伝授された源義家は寛治元年(1087年)4月4日より15日間の間 七手組を率い秘伝奥義をこの陣ヶ岡で極め その実技によって、 後三年の役で清原氏を瞬く間に滅亡させたという この兵法は日本史の戦いで最も古く、 後の源頼朝 来陣の時 甲斐源氏の将武田信光と北陸軍の将宇佐美實政は 5昼夜に及びこの陣跡を調査し それぞれ後に武田流大正奇正長蛇の陣法 又 上杉流八陣車懸りの備えとして 二家の独特の兵法をなった 今も見る堀跡陣地の起伏は正にこの兵法の遺蹟である


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堀の跡


池の跡から蜂神社へ向かって上っていく神社一体は丘になっている
萬亀山千鶴寺由来(看板)
建武のころ足利氏の一族斯波(しわ)家長が奥州管領として高水寺城に配置になったとき 陣ヶ岡は古代より武将の故跡であり、殊に康平より文治に至り源氏軍の陣営地であったので、幾多の戦いの将兵慰霊のため、十一面観世音と斯波家の若篠竹の宝剣を供えて、萬亀山千鶴寺を建立しました。尚 八田源左エ門入道を別当とし宮手村より、八町歩の水田を納めて斯波家代々をはじめ広く地方民から崇拝されていると伝えられています。
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神社の境内には 日本武尊の王子碑
皇子森古墳由来(看板)
第12代景行天皇の皇子日本武尊蝦夷征討の時この地に宿営したが、皇子妃御産となり麓の清水を産湯とされ清水は御子清水と称し 高水寺の始まりと伝えられている。王子三日にして崩御ここに奉葬するも以来歴代支配者の崇敬を受けていたが殊に藤原秀衡は廟鑑を置き神田20町歩を奉納されていた。原罪御産と子育ての神として地方民から深く崇拝されている


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この石の上に立ってお祈りをするとすこぶる霊験あらたかで ご利益があるという

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坂上田村麻呂、源頼義・頼家父子、源頼朝、南部直信 などの本陣が


この丘 陣ヶ岡は 古来から色々な歴史上の本陣となっていたようだ。


五郎沼に向かった、五郎沼は氷が張っていて、白鳥の動かないでジッと、鴨が蠢いている五郎沼の横の蓮池は古代蓮

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五郎沼の蓮のいわれ(看板)
囲いの中の蓮は、820年前五郎沼に咲いた古代蓮です。 平泉の中尊寺には藤原清衡、基衡、秀衡の三人の遺体と泰衡の首がミイラとなって安置されています。 これは昭和25年の学術調査で確認されました 泰衡の首桶の中から蓮の種子がみつかり、調査団の関東学院大学故大賀一郎博士が研究用に持ち帰り保存していたものを教え子の恵泉女子学園短大の長島時子教授が生命工学で平成6年に発芽させ平成10年開花5年がかりで栽培にこぎつけ 平成11年中尊寺に移植し初めて開花させたことが大きな話題として報道されました。この蓮については平成12年9月の五郎沼薬師神社例大祭に中尊寺の千田孝信貫主さんが出席され次のように話されました。 「文治5年(1189年)源頼朝が28万4千騎の兵を引き連れ陣ヶ岡蜂神社に陣を敷いていました。そこへ泰衡の首がとどけられました。 泰衡の首は頼朝の実検のあと長らくさらし首にさらされていましたがその後ひそかに祖父母たちの眠る中尊寺の金色堂に安置されました そのとき首桶の中に泰衡と親戚関係にある樋爪氏の五郎沼に咲いていた蓮の花を五郎沼ゆかりの婦人の手でたむけられた蓮が種子となり、800年経ってよみがえったものです」この蓮は平成14年5月28日に中尊寺から株分けされて五郎沼の地に移植されました
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歴史のロマン香る樋爪館(看板)
樋爪館(ひづめのやかた)は平泉初代藤原清衡の四男清綱がここに派遣され、その子太郎俊衡、五郎季衡らが居を構えて周辺を支配したとされている。館跡は赤石小学校付近にあり、周辺に堀の跡や平泉と同時期の住居や井戸、倉庫などの跡が悪人され、かわらけなどが出土している。箱清水という地名や松原という屋号などはこうした館の空間をそうぞうさせる。また、薬師堂(現 薬師神社)や大荘厳寺、中島の観音堂などがあったという。寺の跡にはその後供養の他名建てられた古碑群がのこされている。五郎沼は 以前は西に広がる広大な沼であったが、季衡が堤防を築くなど灌漑用水池にしたとも考えられる。季衡は好んでこの沼を泳いだという。館は西片に奥大道、東に北上川と東街道が南北に走る交通の要衡にあり軍事と物流の拠点でもあった。北上川の舟場は平泉館とを結ぶ北のターミナルといえる。こうした交通路を経てこの地から産出される砂金や馬、漆、米などの産物が送られ、平泉仏教王国の造営を支えたと考えられる。ちなみに「ひづめ」はアイヌ語でピッツ・ムイ(河原の港)が転化したものである。文治5年(1189年)9月4日、源頼朝が平泉を攻めて紫波の陣ヶ岡に布陣した。この時、樋爪氏一族は館に火を放ち北へ逃亡した。頼朝の裁定で太郎俊衡が藤原氏家臣中ただ一人許され、この地に戻って寺の住職となったという。その他の一族はすべて関東方面に流罪となった。 頼朝により陣ヶ岡に晒された平泉四代藤原泰衡の首をはずし、その首桶に蓮のみを入れて金色堂に納めた人物がいる。それが出来たのは太郎俊衡以外に考えられない。800年のときを経て平泉に咲いた蓮は、平成14年、樋爪館跡に里帰りして古代の歴史ロマンを今に語り伝えている。



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s-陣ヶ岡地図google
(google地図のコピーです)
地図の上は 陣ヶ岡、下左は 五郎沼、右は 森のharmony

紫波という字は昔からではない、 斯波、志和(この地名は今もある)、紫波かな~、日詰という町は昔からあったような私が高校の時は日詰行きのバスとかあった今は紫波町のメインの通りの名前、日詰商店街(旧国道)。



首洗ひ池の柵身に沁みて

血しぶきにさも似さるとり いばらの実

矗々と寒々と松五六本
   啓子


追記
今晩は 満月の皆既月食という、9時45分ころからというので、9時半ころ外を見たら雪が降っており1cmほど積もっているではないか、でも時間になったら 月が見え始めた・・・
s-月食22時
s-月食22時20分
(トリミングしてます)

11時近くになって又雪がドンドン降ってきたし、これじゃ・・・
明朝は9時から 公民館の掃除なのに とっホッホ・・・



                    
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Author:morinoharmony
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退職後 実家のある 盛岡から南20数km、国道が近いがクマちゃんも出没する森の中に住んでます。

庭では薔薇100本程。

横好き・・・
庭いじりと散策(毎日が発見)、
なんちゃってオーディオ、
指がついて行かないクラシックギター、
株式チャート研究(何で利益が出ないの!!??)、
何これ写真と写真行、
気ままな料理、
どれを取っても毎日が進歩?の過程ですが。

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