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2012.01/17 [Tue]
丁印と鉈屋町など
5きげんテレビ という番組で もりおか歴史文化館 を取り上げていたので 盛岡へ出かけた、ついでに ゲスト出演の 高橋佳代子(岩手テレビから4chに引き抜かれて みのもんた と長い間コンビで昼の番組をやっていたが、今は故郷に帰って 時々 岩手テレビ系列の番組に出ている 結構 おばさんになったが 相変わらず 素敵で綺麗でカワイイ)が 神子田の朝市で ひっつみ や 中華そば を食していたので つい寄って見た・・・が、満車なのに、店はなにも無い(屋台の店が多いのでは) し 人っこ 一人も居ない。 着いたのは10時頃であったが、 後で聞いたら朝4時頃から始まり7時には終わるという 朝市というから そうか、 佳代ちゃん 出ていたのは夕方の番組だったが、あれは朝のロケだったんだ!
車を走らせていたら、盛岡の町家の1つ 前にも来た 鉈屋町に出た 町家サロンピッピでコーヒーを飲んだ 中の様子は家庭画報でも紹介されたという。奥様がパッチワークのモラを教えていてその商品も販売していた。 そういえば 私も35年程前に パナマの人から戴いたものがある 貰った時は裏を出したので、雑巾かと思った。







これは私が貰っていたもので 額縁に入れていた。
肝心の もりおか歴史文化館 でかい広い 立派 盛岡も金持ち 盛岡の歴史が分かり易い(かもしれない、私それほど造詣が深くないので なんとなく濁して・・・)。



二階部分まで届く 山車
肝心の丁印 説明文をそのまま転載しました。
丁印 は、盛岡城下各町(丁)の自治組織の標識の役割を果たしていた、各町のシンボル的存在である。一般的に担ぎ屋台の形態をとっており、中央には故事に由来する人形などが飾られ、周囲には欄干を設け、正面に町名を記した額が掲げられている。また、山車は飾りを毎年作り変えるのに対し、丁印は字の如く町(丁)の印として例年同じ飾りが用いられていた。 始まりは定かではないが、「内史略」に「宝永六年(1709)初めて盛岡二十三丁より出師物、練物出る」、盛岡藩家老席日誌「雑書」の正徳3年(1713)の件に「此節町印笠ほこ并町子ともおとり御新丸御二階より御覧被遊」との記述がある。これらの史料から、7代藩主南部利幹の治世において、盛岡八幡宮の祭典の際に神輿渡御の行列に丁印及び山車が随行し始めたと考えられる。 丁印が行列に随行する習慣は明治初期頃まで続くが、明治17年(1884)の大火でその多くが焼失した。 市内に現存する丁印のうち形態を留めているものは、「川原町鉈屋町丁印」と「鍛冶町紙町丁印」の2台のみで、ともに近世における盛岡城下の町民文化を伝える貴重な史料として、市の有形民俗文化財に指定されている。
鍛冶町紙町印 鍛冶町と紙町 合同の丁印。唐破風造りの屋台で、四方の跳高欄には「嘉永二年(1849)酉八月吉辰 丁印新規造之 塗師紺屋町字兵衛」の銘、中央に据えたれた人形には「文化六年(1809)巳歳五月」と記されている。中央には、中国の故事「張良、黄石公より六韜三略巻物を戴く」の一場面を題材とした人形が据えられており、龍を倒した張良が、その功績を認められ巻物を授かるという逸話を表わしたものである。 背面には錦織で金糸・銀糸で織られた中国唐代の皇妃楊貴妃の姿が描かれている。


川原町鉈屋町丁印 文化9年(1812)の町割改革において、鉈屋町が新たに編入されたことにより、川原町と合同の丁印として造られた。唐破風造りの屋台の中には、中国の故事「司馬温公の瓶割り」を題材にした人形が据えられている。これは北宋時代の儒学者・政治家である司馬光(温公)が幼少の頃、仲間の一人が水瓶の中に落ちた際、機転を利かせて石で水瓶を割って救い出したという逸話が元になっている。 背面には緋色の羅紗地に牡丹にわたむれる獅子2匹「唐獅子牡丹」の見返し幕が付けられている。


館内の展示







向い鶴は 南部藩の紋 盛岡城(不来方城)の模型
帰る途中 昼飯、前にも時々見ている 外見からは 入りたい と 思えない食堂。行きつけの薬局 金田一が勧めてくれた。駐車スペースは6台 店内のテーブル4人掛(小さい)が4つ 座敷スペースのテーブル2人が良い所が 1つ、メニューは 蕎麦、ウドン、丼を中心に47程(ドリンク除く)貼り付けてあった。タクシーの運転手が行くというだけあって 味は良い 確かお袋 昔からあるとか言っていた

食べたのは ラーメン半チャーハン付き 750円 お新香とか付いて見た目も良かった、客も7~8人いた。中の写真を撮るのをすっかり忘れていた。
車を走らせていたら、盛岡の町家の1つ 前にも来た 鉈屋町に出た 町家サロンピッピでコーヒーを飲んだ 中の様子は家庭画報でも紹介されたという。奥様がパッチワークのモラを教えていてその商品も販売していた。 そういえば 私も35年程前に パナマの人から戴いたものがある 貰った時は裏を出したので、雑巾かと思った。







これは私が貰っていたもので 額縁に入れていた。
肝心の もりおか歴史文化館 でかい広い 立派 盛岡も金持ち 盛岡の歴史が分かり易い(かもしれない、私それほど造詣が深くないので なんとなく濁して・・・)。



二階部分まで届く 山車
肝心の丁印 説明文をそのまま転載しました。
丁印 は、盛岡城下各町(丁)の自治組織の標識の役割を果たしていた、各町のシンボル的存在である。一般的に担ぎ屋台の形態をとっており、中央には故事に由来する人形などが飾られ、周囲には欄干を設け、正面に町名を記した額が掲げられている。また、山車は飾りを毎年作り変えるのに対し、丁印は字の如く町(丁)の印として例年同じ飾りが用いられていた。 始まりは定かではないが、「内史略」に「宝永六年(1709)初めて盛岡二十三丁より出師物、練物出る」、盛岡藩家老席日誌「雑書」の正徳3年(1713)の件に「此節町印笠ほこ并町子ともおとり御新丸御二階より御覧被遊」との記述がある。これらの史料から、7代藩主南部利幹の治世において、盛岡八幡宮の祭典の際に神輿渡御の行列に丁印及び山車が随行し始めたと考えられる。 丁印が行列に随行する習慣は明治初期頃まで続くが、明治17年(1884)の大火でその多くが焼失した。 市内に現存する丁印のうち形態を留めているものは、「川原町鉈屋町丁印」と「鍛冶町紙町丁印」の2台のみで、ともに近世における盛岡城下の町民文化を伝える貴重な史料として、市の有形民俗文化財に指定されている。
鍛冶町紙町印 鍛冶町と紙町 合同の丁印。唐破風造りの屋台で、四方の跳高欄には「嘉永二年(1849)酉八月吉辰 丁印新規造之 塗師紺屋町字兵衛」の銘、中央に据えたれた人形には「文化六年(1809)巳歳五月」と記されている。中央には、中国の故事「張良、黄石公より六韜三略巻物を戴く」の一場面を題材とした人形が据えられており、龍を倒した張良が、その功績を認められ巻物を授かるという逸話を表わしたものである。 背面には錦織で金糸・銀糸で織られた中国唐代の皇妃楊貴妃の姿が描かれている。


川原町鉈屋町丁印 文化9年(1812)の町割改革において、鉈屋町が新たに編入されたことにより、川原町と合同の丁印として造られた。唐破風造りの屋台の中には、中国の故事「司馬温公の瓶割り」を題材にした人形が据えられている。これは北宋時代の儒学者・政治家である司馬光(温公)が幼少の頃、仲間の一人が水瓶の中に落ちた際、機転を利かせて石で水瓶を割って救い出したという逸話が元になっている。 背面には緋色の羅紗地に牡丹にわたむれる獅子2匹「唐獅子牡丹」の見返し幕が付けられている。


館内の展示







向い鶴は 南部藩の紋 盛岡城(不来方城)の模型
帰る途中 昼飯、前にも時々見ている 外見からは 入りたい と 思えない食堂。行きつけの薬局 金田一が勧めてくれた。駐車スペースは6台 店内のテーブル4人掛(小さい)が4つ 座敷スペースのテーブル2人が良い所が 1つ、メニューは 蕎麦、ウドン、丼を中心に47程(ドリンク除く)貼り付けてあった。タクシーの運転手が行くというだけあって 味は良い 確かお袋 昔からあるとか言っていた

食べたのは ラーメン半チャーハン付き 750円 お新香とか付いて見た目も良かった、客も7~8人いた。中の写真を撮るのをすっかり忘れていた。
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